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2008年7月

八王寺の無差別殺人は日本の教育の賜物か

また無差別殺人が起きた。 理由らしい理由もなく「誰でもよかった」殺人。 巻き込まれた方は本当に気の毒だ。 合掌。

今回の犯人は、けがをして休職中であったが、仕事が無かったわけじゃない。 金に困っていたという報道もない。 離婚はしているが、一度は結婚もした。女性に奥手というわけでもないのだろう。 ましてや、ネットに嵌ったオタクでもない。 さあ、マスコミはどう報道する? 被害者のことを思うと不遜ではあるが、マスコミの報道が見ものだった。 

実際、朝のワイドショウでは、「このような事件が続いて、報道する側もどう扱っていいのかわからないところがある」と非常に正直なコメントをしていた。 前回の秋葉原の加藤容疑者のようには、簡単にレッテルが貼りにくかったようだ。 それが当然なのだ。 もともと、ネットオタクや派遣なんてことは殺人の原因ではなく、マスコミが作り上げたデマなのだから。

「人を殺す」ということは、一般に人間にとって耐えがたい行為である。 それは「人間」だけではなく、動物の本能として自分と同種の存在とは競って、戦って傷つけ合うことはあっても、殺すことは滅多にない。 戦争で人間は人を殺すじゃないかと言う人もあるだろうが、実際の戦争では「見えている相手を直接殺す」ことは少ない。 ミサイルや爆弾で遠隔的に見えない相手を殺すことは容易い。 それは、本人に「殺人の自覚」がないからだ。 だが、実際の戦場では、銃で相手を撃ち殺すことはほとんどない。 銃弾の90%以上が、人の居ないところに向かって撃たれており、無駄に費やされている。(アメリカ軍のデータ。詳しくは、「戦争における人殺しの心理学」-デーヴ・グロスマン著を参照いただきたい。) 逆に戦場で自覚的に人を殺せるのは、「一種の精神異常者」であるらしい。 そうでなければ、戦場であっても、人を殺したことは深く心に傷を残すことになる。 アメリカの復員兵たちが、自分たちの人殺しの履歴を認めようとしないのは(例えば、原爆の惨禍をアメリカで報道することを反対することなど)、認めると良心の呵責に耐えられないからなのだ。 人を殺したことがある者は、本来は耐えがたい動物的本能を乗り越えた特別な存在となる。 昔のヤクザ映画で人を殺した者に箔が付いたように扱われるのも、一方で毛嫌いされるのも、そういった背景があるからだ。 だから、通常の人間の神経であれば、他者を殺すことは難しいはずだ。

じゃあ、なぜ最近殺人事件がよく起こるのか? 無差別殺人だけじゃなく、「動機ある殺人」まで含めると、ほぼ毎日のように事件は起きている。 どうしてそんなに簡単に人が殺せるのか。 YPは、それは他人を人と思っていないから、「自分と同じ傷つくと痛みを感じる(人)として認識できていない」からだと思っている。 単に自己中心的と言うだけでなく、「他者を人間と認知出来る能力に欠けた人」が沢山育って来ているのだ

それでは、なぜ他者を認識できないのか? それは、一般的な動物社会にもある、対立し、競争し、勝ち抜いて成果を得ることを、公的にも家庭でも教育の中から意図的に排除しているからではないだろうか。 人間以外の生物は、厳しい生存競争にさらされて生きている。 戦わなければ、生き抜くことも子孫を残すこともできない。 だから、自然に同類と生身で傷つけ合って戦わねばならない。 そこで戦う「他者」を自分を傷つける「リアルな存在」として認識する。 親は、そのリアルな存在との戦いを子供の前で繰り広げることによって、「生き方」、「他者との関わり方」を子供に教育する。 壮絶な生き死にの戦いがそのまま教育となっている。 

じゃあ、今の人間(特に日本人)はどうだろう? 学校でも、家庭でも、徹底的に他者と競うこと・争うことが排除されている。 生物に当然あるべき「彼我の差異」をあからさまにすることが悪とされている。 子供たちは、みんなに平等にいろんな可能性があると「嘘」を教えられるのだ。 可能性は、互いに競い、追求しあう中で育むもので、もとから「有り、自然に成る」ものではないのに。 競わなくて養われるなら、世界中の人は皆天才だし、オリンピック選手にもなれるだろう。 だけど、実際にそんなことはあり得ない。 競ってみなければ、鍛えられてみなければ、その子の本当の可能性も見えてこないはずだ。 競い合う場をより多く設けて、人間の可能性を探るならYESだが、今の教育はその真逆を行っている。 学校の運動会から徒競走が消えつつあるが、全員が手をつないでゴールを横切る「エセ平等」の精神が人間を鍛えることも、育むことも絶対にない。 勝ち得なければ喜びを産むこともない。 人間の可能性は互いに競い合うことで生まれ、そしてその競争の中で自分と順序づけられる「同じように傷つきあうもの同士の他人」を認識し、そして社会を形成できるはずだ。 

秋葉原の犯人も八王子の犯人も、そのような競争にさらされた気配はない。 八王子の犯人も、30才を超えた無職の「大人」でありながら「母親といっしょに、頻繁に買い物をしていた」姿が目撃されていた。 要は親に恵んでもらっていたのだ。 自分勝手にふるまっても、競争に勝たなくても、いつも誰かが助けてくれていた。 秋葉原の犯人は、子供の時から「親の言いなりに作文を書かされた」と報道されている。 一見教育熱心な親のようだが、実はその母親は子供に「事前に競争に晒されることを阻んでいた」と言える。 子供自身の能力で勝負することを避け、「先生からよい子に育っている」と思われたい一心での行動だ。 これは教育ではない。 親の独りよがりだ。 そんな親は彼らの親だけではない。 モンスターペアレンツと呼ばれる親達は、競争を悪としながらも、良い成績は期待するといった矛盾した信念で行動するために、子供たちは真の教育を受ける場を失っている。 そしてその子供たちは、なんの能力も得ないまま、体だけ大きくなって社会に放り出され、「立派な大人・成果を上げる勝者」となることを求められる。 でも出来ない(あたりまえだ)。 体だけ大人の子供達は「漠然とした理不尽さ」を感じて悶々とし、そして思う。 「悪いのは社会だ。仕返しをしてやろう。でも自分には強いもの(公権力、企業、親、その他の本当の悪人達)に勝つ能力はない。 じゃあ、誰でもいいから弱い者(秋葉原のオタク、本屋の女性達)なら簡単にやっつけられるだろう。 弱いやつを殺して、注目をあびてやろう。 さすがに人を殺せば、いくら何にも出来ない俺でも、世間は注目してくれる(成果があげられる)はずだ。 世間を見返してやれる。」   

こういった、他者を認知出来ない人間を育てる嫌な社会状況の転換には、日本人の失われた動物本能を取り戻すことが必要だ。 かといって、それは小泉元首相が推し進めていた「弱肉強食社会」や「格差社会」を是認するものではない。 人の能力を育て、社会的な生物とするために、「大人になる前の成長時に、適正な競争機会をより多く子供たちに与え、可能性を開花させる教育」を、国が率先して実行し、成果を出すことが必要だ。 色々な競争の中で、一つでも自分の得意そうな分野を自分で見出して伸ばしていくことができれば、その子供は本当の鍛えられた大人になれるし、競争相手としての他者を容易に認知することができるだろう。 そして出来る自分になることは、自我を目覚めさせ、自分を管理できる「本来の動物的存在」になるということだ(殺人をする連中は動物的でさえない)。 こういった「多種競争機会を供与する教育方針」に基づいて子供を育てれば、100%では無いにしても、かなりの割合で殺人事件は減らせるし、社会に役立つ人間が輩出できるはずだ。  

とにかく、無差別殺人は、容疑者個人の問題ではなく、日本社会に根ざした深刻な問題であることを認識しよう。 そして、この問題の原因は何なのか皆で真剣に考えようではないか。  

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Vistaのエクスプローラ動作停止!

最近、パソコンを使っていると、エクスプローラが頻繁に「エクスプローラーは動作を停止しました」、「エクスプローラを再起動します」というメッセージを出して落ちてしまう。 よく落ちるのはファイルの移動をしている時だが、時たまエクスプローラを開いてさえいない時にまでメッセージを出して落ちるようになった。 

これはたまらんと思って同様の問題がないかを当たってみると、有るわ有るわ。 皆さん同様の問題で困っておられた。 但し、原因が一つではないらしく、あちらこちらにいろんな対策が報告されている。 片っ端から試してみるもなかなか当たらず、落ちる頻度は増すばかり!!! 「あーXPや2000の方がよかったわ」っと、もう少しでOSの書き換えまでしようと思った矢先、以下のブログに突き当たった。

yogi: http://yogi.blog.so-net.ne.jp/2007-11-08

この中の「ユーザーアカウント制御(UAC)を使ってコンピュータの保護に役立たせる」のチェックを外す、という行為を行ったところ、なぜかそれ以降エクスプローラは落ちなくなった。

???・・・ 結局何が悪いのかはよく分からないが、とりあえず作業ができるようになったのでよかった。 まあ、いろいろ症状があるようなので、今後も出ないという保証はないが、同じ問題を抱えておられる方はお試しあれ。 

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